2009年

ーーー1/6ーーー 子供たちの帰省

 正月に、長女が東京から、息子が大阪から帰省した。長女はOL三年目、息子は大学四年である。

 二人とも自分の生活が忙しいので、我が家で過ごすのは短い日数でしかない。それでも、時間を作って帰ってきてくれるのだから、有り難いと思う。私自身は独身のころ、学生時代も会社員時代も、年末年始は山にスキーに遊び回り、実家に帰った記憶などほとんど無い。今から思えば、親は寂しい思いをしていただろう。

 それぞれを相手に、いろいろな話をした。生活のこと、仕事のこと、勉学のこと、はたまた世相、文化、芸術、等々、話題には事欠かない。話し始めれば、一時間くらいはすぐに経ってしまう。

 話しながら、ずいぶん成長したものだと感じた。ほんの数年前までは、私が言って聞かせる立場だった。言わば子供扱いをしていたのである。それが今では、対等な会話が成立する。いや、むしろ彼らの方が知識が豊富で、私が聞き役に回る方が多いくらいである。

 アドバイスも貰うし、励まされもする。まるで親子の立場が逆転したかのようである。私はそれを楽しむ。もとより親のメンツにこだわる理由も無い。子供たちが私の知性の上を行く存在になっていく事を、目の前で確認するのは、一種の快感でもある。

 息子は、外の社会を経験するにつれて、我が家が昔からいかに会話の多い家庭であったかを感じるようになったと言う。それを聞いて、また嬉しかった。



ーー−1/13−ーー 桁違いの話

 会社勤めをしていた頃の話。出張先のバンコクで、社員数名と商社のスタッフが、レストランで食事をした。話題が、お金に関わる失敗談になった。こういう話になると、商社の人は乗ってくる。

 「うちのロンドン事務所で、契約金額を二桁間違えて書いて、大騒ぎになったたことがありましてね」と切り出した。こちらは技術畑の人間ばかりなので「ああ、そうですか」といった鈍い反応。商社マンは怪訝そうな顔になり、「おや、皆さん驚かないですか。五百万円が五億円ですよ」とたたみかけた。それを聞いてはじめて、こちら側は「おおっ、それは凄い」と騒ぎ立てたのであった。

 二桁は極端な話だが、一桁違いなら私自身で目の当たりにしたことがある。

 やはり会社員時代のことだが、あるメーカーから大きな設備の見積りを取った。金額はよく覚えていないが、二十億円くらいだったと思う。所属していた職場が扱うものとしては、かなり高額な部類だった。

 メーカーの営業担当者が見積書を持ってきた。営業部長の印も押されている正式書類である。それを見たら、どうもおかしい。ゼロが一つ足りないのである。20億のはずが、2億と書いてある。

 「おや、ずいぶんお安くなっていますね」と言うと、相手は「はい、今回は工場サイドも思い切った金額を出してきました」と胸を張った。「だって、これ、2億ですよ。一桁違うんじゃないですか」と言うと、相手は「えっ」という顔になり、見積書に目を落として桁を数えだした。その後の慌てようはケッサクだった。咄嗟に見積書の上に両手でバッテンを作り、そのまま引きずってクシャッと丸め、ポケットの中に押し込んだ。

 職場に戻って、先輩社員にその話をした。先輩は、「その場で購買部を呼んで、契約しちゃえばよかったのに。お前一人で18億の儲けを上げれば、表彰ものだぜ」と言った。

 数年後、社員研修で契約に関する法律問題の講義を受ける機会があった。その中で、たとえ口約束でも、立証されれば、一度提示した金額は戻せないという説明があった。講義を終えた後の質疑応答の場で、私は前述の間抜けな話を述べ、20億のものを2億で買うことができたかどうか問うてみた。

 講師の答えはこうだった。「見積書に記載された金額は、基本的には変えることができず、買うと言われたら応じなければならない。しかし、法律には錯誤という概念がある。誰が見ても間違いだと分かる場合には、責任をまぬがれる。金額を一桁書き間違えた場合は、この錯誤が適用される。だから法律の視点から見れば、20億のものを2億で買うことはできない。その場合、お騒がせ代として少し値引きさせるくらいが妥当なところではないか」



ーー−1/20−ーー 新しい製図板

 正月に帰省した長女が、お年玉を置いて行った。子供からお年玉をもらうというのは、人によっては抵抗を感じるかも知れない。しかし私は有り難く受け取る。東京に出たときに、娘と落ち合って食事をすることがあるが、そのときもおごってくれる。そういうのも楽しい。娘が社会人として立派に暮らしているのがうかがえて、幸せな気持ちになる。

 貰ったお年玉を使って、新しい製図盤(ドラフター)を買った。ドイツ製の、A3サイズのコンパクトなものである。

 A0の大きなドラフターは、開業当時から使っている。イスの原寸図を描くには、これが必要だ。しかし、それ以外の用途には、少し不便だった。

 テーブルや箱ものの図面は、A3の用紙に描く。その理由は、コンビニでコピーが取れるサイズだから。図面は見積書に添えて、注文主に送る。そのときに、コピーが取れないと困る。だから、多少手狭で細かい図面になっても、A3に詰め込んで描く。

 A0のドラフターは、事務所に置いてある。大きな物だから、気軽に移動することはできない。小さな図面を描くのに、わざわざ事務所に行くのは、ときとして億劫である。冬の寒い日は、特に嫌だ。それに、大きなドラフターで、小さな図面を描くのは、取り回しが大げさで、使いにくいこともある。

 そんなわけで、どこでも使える小型の製図盤が欲しいと、以前から考えていた。しかし、製図道具をいくつも持つのは贅沢に過ぎる気がして、躊躇していた。工房には昔ながらのT定規も有る。

 今回、お年玉という嬉しい臨時収入があったので、思い切って買うことにした。お小遣いで仕事の道具を手に入れるというのも悪くない。

 小型の製図盤は便利だ。暖房がきいた、ぬくぬくと温かい居室で図面が描ける。また、工房で作業をしているときに、ちょっとした加工図面を描くのにも使える。場所を取らないので、工房のバックルームに置いておけば、いつでも使える。

 ところで、届いた品物を見て、最初は不満があった。A3対応のはずなのに、A3をフルサイズで使えないのである。ワンタッチで用紙を固定できる便利なクリップが組み込まれているのだが、それに用紙をセットすると、平行移動式の定規が邪魔になって、下のほうに線が描けない。また、紙止めクリップそのものが邪魔になって、用紙の縁の部分に線を引けない。私は用紙の縁から10ミリのところに線を回して、作図の領域を区切るようにしているが、それができない。

 別売りのドラフティング・ヘッドを装着すると、有効作図面積はさらに狭くなる。A3の用紙をセットしても、上側三分の二しか使えない。

 この買い物は失敗したかと思った。世界的に名の知れた製図道具のメーカーが、このように行き届かない品物を作っているのかと、腹立たしい気持ちにもなった。娘から頂いたお金が、私の判断ミスで無駄になったとしたら、申し訳ない。

 それでも、なんとか有効な使い方を考えてみた。あれこれトライしてみた結果、これは当初感じたほど悪くはない、と感じるようになった。いやむしろ便利な点が優っている品物だとさえ思えてきた。形勢逆転である。

 作図領域から外れている部分に線を引きたければ、用紙を回転させて、別途記入すればよい。それが容易にできるほど、紙止めクランプの操作性は良い。また、二度書きをしても問題ないくらいの精度がある。

 さらにドラフティング・ヘッドの問題点については、用紙をテープで止めることで解決できる。私が現場で描く加工図面はA4サイズが多いのだが、そのサイズなら、盤面の上の方にテープで止めれば、全面をカバーできる。テープ止めの使用感の悪さはあるが、この装置の便利さ、使い勝手の良さは、それを打ち消して余りある。そして、必要ないときはヘッドを外せばよい。移動定規の上に置いてあるだけだから、外すというほどのことでもない。

 当初感じた問題点は、使い方の工夫次第で、いかようにもしのげるものだった。この製図盤を開発した技術者は、そういう問題点を承知の上で、作ったのだと思う。全体のサイズを切り詰めているところに、問題点の源がある。しかし、その追及されたコンパクトさが、軽快な使いやすさを生み出している。この大きさは、盤そのものの縦横を頻繁に置き換えて使っても支障がなく、便利である。

 若干の使いにくさを秘めながら、使い方を工夫すれば十分に利用価値がある。そういう設計思想なのだと思う。このような考え方は、現代日本の工業社会にはない。行き過ぎと思われるほど細かい配慮をするのが、日本の製品である。まるで叱られるのを恐れる子供のようである。そういう優等生的な品物は、概して個性がなく、親しみが湧かない。

 大人なんだから、自分で使い方を考えましょうよ。この道具は、そんなことを言っているようにも思う。



ーー−1/27−ーー 量産の効果

 画像の一枚目は、ペン立てである。二本しか立てられないが、日常で頻繁に使う筆記具の数は限られているから、これで結構便利なものである。逆に、大きいペン立ては、気を抜いて何でもかんでも詰め込んでしまうと、必要なものをその中で探すはめになって、かえって使い勝手が悪くなる。

 12月の展示会で、大勢の方々にお世話になった。そのお礼の品物として作ったのが、このペン立てである。と言っても、アイデアの発信源は、展示会の総合プロデューサーをやってくれたM氏。「大竹の作風の一つは木組みなのだから、それを生かした小物を作ってみないか」とのアドバイスだった。それを受けて、色の濃いサクラ(シュリザクラ)と、色の薄いクリを、「蟻組み」という手法で組み合わせた物を考案した。

 展示会には50ヶほど持って行った。お礼や挨拶回りに配った残りは、展示会で販売することにした。1ヶ700円也。そうしたら、最終日を待たずして全て売り切れた。

 展示会が終わった後も、追加の用途がいろいろあって、30ヶ製作した。それらも、あっというまにはけてしまった。

 最近になって、また60ヶ注文が来た。それで、いっそのこと多めに作ろうと思い立った。材木置き場からサクラとクリの板を引き出し、それぞれ一枚ずつ使ったら、160ヶほどの数ができた。

 一つのものを大量に作ると、違った世界が見えて面白い。

 作る数が少しなら、加工のための体制を整えるより、ぶっつけ本番で製作してしまった方が早い。ところが、160個を作るとなると、多少手間がかかっても、加工手段を整える方が、結果的に能率が向上する。手でやっていたことを機械で置き換えたり、治具(加工補助具)を作ることで、能率良く、早く作れるようになる。

 1つの工程に1分かかるとしたら、160ヶでは2時間40分になる。その工程で、1ヶ当り10秒短くすることができれば、全体で30分近くセーブできる。そういう工程が10あれば、5時間得することになる。

 そんな事を考えていくうちに、ストップウォッチが登場する。作業時間を秒単位で計るようになる。まるで工場の工程管理職のようである。

 品質に関しても意識が変わる。なるべく落ち度が無いように細かく気を使うようになる。落ち度といっても、同業者が重箱の隅をつつくようにして見て気が付く程度の、些細なものである。そんなものは、品物の数が少なければ気にもしない。しかし、数が50や100になると、ちょっと気になる。数が増えると、重みが出てくるのである。100円の3パーセントは3円だが、1億円の3パーセントは300万円という感覚に似ている。

 よく言われることだが、木工品は数多く作るほど、仕事のレベルが上がるとされる。数多く作ることでスピードが上がり、品質も向上するということだろう。それによって競争力の高い商品になるのは、間違いない。今回の出来事は、それを証明しているようだった。



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